2005年4月25日月曜日

そして

やっと日本に辿り着きました。日本を出るときには小さいマリンバくらいしか持ってなかったのですが、長い留学の間にまあなんと楽器の増えたことか! 楽器だけでダンボール約50箱!日本に帰って置く場所ねーじゃん!!
5ヶ月分の生活費しか持たず、フランスに出発したのに長くいることができたのは、コンクールの賞金や奨学金をいただけたおかげもありますが、陰となり日向となりずっと応援してくださった方がいらしたからでもあります。
金がないやつでもクラシックできるか?!とハングリー精神で突き進んで来ましたが、自分一人の力ではとうの昔に力尽きていたでしょう...

かなり簡潔にまとめましたが、僕の留学生活知っていただけたでしょうか?

でも本当に話したいのは行間。
その間にいっぱいいろんな思いがつまっているのです。
まだ何一つ達成できていない僕はまだまだ発展途上中。まだまだと思えるのは楽しいことです。まあ急ごうとも思いませんけど。

日本に戻ってからの苦悩、停滞、恋愛?はまたこの次に。

2005年4月24日日曜日

海外生活で感じたこと

音楽を仕事にする、ということは全く意識がなかったです。日本に帰ってからこの問題に直面するわけですが、とにかくスポンジのように吸収しまくった海外生活でした。
感じたことは、りんごの皮はむいて食べるもんだ!と無意識にも思っていたのが、向こうでは皮付きまるごと食べるのが普通.... そんな感じです。フランスパンをそのままかばんに入れたり、白い服なのに土の上にそのまま座ったり....
それにはもちろんその国ならではの理由というかいろいろあるんですが、物事ってそういう風に見つめられるし変わるんだ!ってことが一番感じたことです。
電話って電話の形が電話だと思ってたのが、電話になるためにはたくさんの部品がいろいろなところで作られて、それが集まってきて組み立てられ、っていうことを考えるようになりました。物じゃなくても一緒で、内側に興味を意識して見るようになったと思います。

日本での生活になかなか進まないということは、懐かしさもあるでしょうが、このときの生活はシンプルで、演奏すること以外何にもしてなかった頃に浸っていたいんでしょうね。

2005年4月23日土曜日

そんなこんなで...

ドイツに戻り、区切りの六月までは練習、練習.... それだけをやっていられることの幸せな期間でした。何も知らなかった僕が、クラシックを勉強し始めて10年、まだこれでも芸術の’芸’を知ったとは到底思 えません。先生にひたすらついて行きたかったのですが、自我からか全く同じ音楽の方向性ではいられずに、これからは自分自身で<核となるもの>を探してい かないといけないのかな~、と路頭に迷っておりました。
クラシックの演奏法は、自己表現というよりも、作品のオリジナルに(これは核ともいえます ね)焦点を合わせていくかということを大切にしています。ひとつの表現をとっても、それがどこから出てきているかをよくわかっていければならないと思いま す。歴史、作曲者、スタイル、などフィルターはたくさんあります。そこで路頭に迷ってしまうのです。

う~ん。

歌の先生は、たくさんのヒントと方向性を僕に与えてくれました。昨年まだ若くしてお亡くなりになってしまいました.... 先生に聞きたいこといっぱいあるのに.... 今になって更に更に、自分の不勉強を悔やみます。

ヴァイオリニストに惚れてクラシックを学び始め、打楽器というよりは、ピアノ、歌に近づきたかった僕が、改めてこの打楽器というものについて考え、向き合っていくことになったのはもうドイツから日本に帰ろうという頃になってからでした。(何事もおそい!)

2005年4月22日金曜日

ギリシャで

ギリシャには完全に泳ぐ目的で行きました。小さい島から徒歩10分くらいのところに宿を借り、朝は港からバ スに乗って一番きれいな海岸まで行って、夕方までそこで過ごし、戻ってからは着替えて港付近のレストランでご飯を食べて、夕焼けを見て、暮れるとホテルに 帰り楽譜を読んで寝るというサイクルでしばらく生活していました。
海岸に行くと、アジア人はほとんど見たことないのか、皆興味深々。カタコトでお 互い会話しながらわりと生活や人生について話しました(つもりになってる)。そして夕暮れの恐ろしく綺麗な海を見ながら、今後について考える毎日でした。 演奏家としては、世界中を飛び回りいつも忙しいのがかっこいい、というような世界もありますが、僕が習った先生は生活に根ざした所から生まれるものを大切 にしている人でした。その影響もあるのでしょうが、とにかく心と体をニュートラルにして、インターナショナルの意味を考え直そうと思ったのです。自分が何 をやりたいのか、そしてどのように生きていきたいのか。答えのないことをぐるぐると.....
ハングリーだけで乗り切ってきた自分にとって、このような島で一生を終える人たちのことは想像できず、自分の中にある生き方の壁のようなものを感じました。うまく表現できませんが....

そんなことをウダウダ考えているうちに、日本に帰ろっか...となった訳です。(全然わかりませんね!!)決してネガティブな発想ではないか!?と自問して。

後にはまた<きれいごと>にさらされるのですが、この時は霞を食べて生きてる状態から脱出したかったのだと思います。

2005年4月21日木曜日

そして日本へ帰る

ドイツはフランスでは全く感じなかったカルチャーショックを感じまくり。言葉もわからないし、面白い(素晴 らしいのことをブンダバーという)し、はじめはいやだなーと思っていましたが、だんだんそのはっきりした感じがいいと思うようになりました。音楽にももち ろん反映されていますよね。ドビュッシーとかラヴェルとかとにかくフランスものにしか興味がなかったのですが、ドイツものもこの頃から興味が出てきまし た。
演奏活動をやらず、旅行にもいろいろ行きましたね。イタリア、スウェーデン、チェコ、ギリシャなどに行きました。ここでもドラマがありすぎ!
書けません....

学校はとにかく新しい世界を吸収することでいっぱいで、楽しかったです。学校の友人と遊んだりすることもなかったので、嬉しかったですね。
そういう感じで思いっきり学校生活を楽しみながら、練習していた訳です。

何で日本に帰ってきたかって?
それはお金がなくなったのと、日本食が好きなので、です。

それを決めることになったギリシャでの出来事はまた今度。

日本に近づいて来ましたね。

2005年4月20日水曜日

それからドイツへ?

ベルリンに行くまでの何ヶ月かの間どうしようかと思っていた矢先、ドイツのダルムシュタットという所で現代 音楽の講習会があると聞き、前から好きだったピアニストのハン・カヤさんが講師で来ているということで、ピアニストに演奏を聞いてもらおうと思い、フラン スを逃げるように向かいました。
打楽器の先生は中村功さんで、大学の頃一度演奏を聴いただけで全く面識のない方でした。僕はピアニストの方に興味 があったのですが、中村先生のレッスンを受けた時、<今できる限りのことはやってる、けどこれから先に進みたかったら器を大きくせなあかん!>と切り出さ れました。はじめは何のことかさっぱりわからなかったのですが、いろいろお話を伺っているうち、僕がパリで習っている歌の先生と言っていることが同じで、 頭打ちになっていた僕に大きな一石を投じてくれたのです。
これだ!と思ったらまた一直線、この先生に習いたい!一からやり直したいと思いました。 そして先生が教えているカールスルーエ音楽大学にレッスンに通うことになりました。家財道具を大学の打楽器庫に置かせてもらい、ベルリンに行き、パリと カールスルーエを往復しながら、歌と打楽器の両面から新しい演奏という世界に入っていったのです。この時期はドラマがいっぱい!で一冊の本が書けるほどで すね。音楽的なことはworkshopのほうに書きますが、本当に今までのものは全て壊そう、ニュートラルな状態にしよう、そればっかり考えていたように 思います。それまで忙しい日々から演奏活動はとりあえず置いて、学生として、練習とレッスン、大学に入ってから一年は基礎練習とバッハ、この2つに絞って やりました。

2005年4月19日火曜日

流れ流れて?

学校での試験を1番早くにしてもらい、コンサートで日本に1週間ほど帰るというその日の朝、ポストを見たら<国外退去命令>の書類が入っていました。
その日は大使館などに行っている場合ではないので、何だこりゃ?と思いながらも試験を終え、飛行機に飛び乗り、日本に帰りました。
コンサート後、フランス大使館に行きました。説明は、不法労働をしていると疑惑をかけられたのでした。それは絶対無い!と言っても、一度決定したことは変えられないとのこと。誤解だ!!僕には全く身に覚えがなく、何でだろう??
訳がわからないままフランスに帰りましたが、その後、滞在許可書がもう今後一切取れないということになってしまったのです。
フランス人の専門の方にもお願いしましたが、難しいということでした。原因は多分、小切手でいただいたコンクールの賞金を銀行に振り込んだので、かなりの大金が突然口座に入ったということで疑われたようです。

コンクールの賞金であと何年かはいられるようになったのに....

途方にくれていたところ、滞在許可書の期限切れるという頃、ベルリンで演劇の伴奏という2ヶ月公演の予定が入り、ドイツに行こう!ということになりました。

2005年4月18日月曜日

こわす作業?

歌のレッスンの最初は、とにかく腹の底から叫ぶことでした。思いっきりやってみるのですが、先生的には全く ダメで頭で考えてやっているだけだ!というのです。何事にも集中力と根性で突き進んできた僕にとって、体を使う、ということはどういうことか全然わかって いませんでした。
その他書ききれないほどダメ出しをされ、今までの方法論はダメだ!ということに気づいたのです。
それからはひたすら今までの頭と、奏法を崩すことにひたすら時間を費やしました。それが今になってやっと、前のことを思い出せないくらい入れ替わったと思えるので、6,7年はかかったということになりますね。
これでもスタートが遅く、一気に形作ったものなので、まだ可能だったのかもしれません。変えよう!と思ってから2,3年はとにかく自分のやってることが嫌で仕方なかったですね。
こうしてコンクールまで一気に向かってきた方向から、違う方向に進んでいくことになったのです。

そんな時!フランス国外退去命令が!!

2005年4月17日日曜日

フランス生活

とにかく家探しからスタート。安かったらどこでもいい!と探し始めたのですが、パリは結構高い... でもオペラ座近くの屋根裏?って感じのところに即決。窓からはサクレクール教会が見え、苦情が出て引っ越すまでの3ヶ月くらい一番パリの生活を満喫したの では、と思います。本当に歩いてどこでも行ってました。コンクールを受けることに決め、練習したいのですが、学校はだいたい10月からなので、家で練習で きるところを探さなければ...苦情もくるし、ということで引越し。コンセルヴァトワール近くの少し郊外、半地下の部屋に引っ越しました。それがだいたい 7月で、コンクールまであと2ヶ月しかありません。そこからはひたすら練習、練習....。日曜の午前中は音出しできないので、その時に洗濯、買い物など を済まし、あとは一歩も外に出なかった週がほとんどでした。隣人には、後から聞いた話ですが、あそこにはキチガイが住んでいる。と言われていたようで す......。

コンクールの後、学校に通い始めましたが、賞を取ったおかげでヨーロッパのいろんな所に行きました。まだクラシックを始 めて間もない、音楽の何たるかも知らない僕が、次々にいろんな演奏会に招かれる訳です。怖いでしょ?学校はその合間に行ってレッスンを受けて、とにかく忙 しい!その後の2年間でした。

学校生活は友人とルームシェアしたりして、スペイン系のヤツだったので語学とか教えてもらいながら楽しく やっておりました。そのときはまだ、20年前くらいに僕の日本での先生がパリに行ったきり、日本の留学生はいなかったので、みんなとても面白がってくれま した。フランスの歌手に僕がはまり、友達の前で歌ったりもしました。アホです。
が、音楽の方は、こんなんでいいのかなー?と頭打ち状態になりながら、先生には何を見せてもブラボー!で、そんなはずはない、と苦しかったです。

そうこうしている中、友人が歌の先生を紹介してくれて、もともとヴァイオリンの歌に共感していた僕はその門をたたくことになったのです。

2005年4月16日土曜日

フランスに行く!

それからはバイトしたり、フランス式の音楽教室に通ったりして過ごし、一度下見に一週間ほど旅行で行きまし た。フランス語は大学4年間取ったのですが、学生生活は粗末なものだったので(前の日記参照)一人でパリ、ブローニュ、ストラスブールと回り、そこの教授 に運良く太鼓とマリンバを少し聴いてもらって、フランスにおいで!ということになったわけです。約束も何もなく、全く初対面だったのですが入学願書やらい ろいろもらってとりあえず日本に帰ってきました。前述のコンクールが終わってから半年も経たないうちにもう留学を始めていたのですから、計画も何もあった ものではありません。金が尽きるまでとにかくいろいろ見て帰るか....という感じでした。ただブローニュの先生が、ミュンヘンの国際コンクールというの があるから受けてみれば?と教えていただいて、それは受けようかなんてぼんやり考えてはいました。

そして1997年3月末に家も学校も決まらないまま(一応学校入れてくれるという許可書を持って)フランス・パリに出発しました。
東京で一度フランスと日本の小学校に学校公演に行かせてもらったことがあり、そこの音楽の先生のパリの自宅に1週間居候させてもらいました。
よ く覚えているのは、到着時間が夜の八時くらいだったのにまだ空が夕方くらいだったことです。完全に日本と違う!ということをすごく意識して、円形の空港の 売店の片隅でリュックひとつで途方にくれていました。テレフォンカードを買ってパリのお宅に電話し、カフェで一杯はお茶して、と....
その後タクシーでパリ市内に向かう時も、オレは一体どうなるんだろう....
と美しい町並みをただただ見つめていたのを今思い出しています。

2005年4月15日金曜日

大学はバイト?

めでたく大学に通い出したのですが、下宿の費用や生活費、レッスン代を稼ぐためにとにかくバイト生活でした。今思うと何故卒業できたかさっぱりわかりません。とにかく悪い学生代表のような有様でした。
で もクラシックに対する憧れ(小さい時からクラシックを自然にやってきている人にはとにかく羨ましくて仕方なかったです)はものすごく強く、マリンバは受験 のためにスケールくらいしかやったことなかったのですが、バイト中とかもいつも手を動かしていて、普通の人から見たらただの変な奴だったと思います。
自分が演奏家になろうなんていうつもりは全くなくて、子供のようにただひたすらあれが出来るようになりたい!って感じで突き進んでいました。
東京には浪人時代からの先生に定期的に習い続けて、関西と関東の好みや表現の仕方の違いなどを客観的に見ていたような所がありました。
練習もたいしてやらないし、パパッと楽譜を見て、弾けるようになった!って感じの脳天気な奴でした。
大学卒業の年になって、日本管打楽器コンクールというのがあり、バイトばっかりしてないで一度まじめに練習してみようと思い、2ヶ月前くらいから練習に集中 するようにしました。そうすると、こういう風に弾きたいというのがどんどん出て来て、作品のバックグラウンドやら何やらに少しずつ興味を持つようになりま した。
結果は3位でしたが、そうか、ふ~ん。という感じで、(すごい傲慢ですが)自分のようなスタイルはあんまり日本では受け入れられないのかな?なんて思い、行きたかったフランスに一気に気持ちが向いて行ったのです。

2005年4月14日木曜日

ヴァイオリンにはまる?

その後、音楽の専門分野を徹底的に勉強し始めました。その頃知人に見せてもらったヴァイオリニストの五嶋み どりさん(僕と同じ年!!)の”カーネギーホールリサイタル”というビデオを見て、こんなすごい同年代の人がいるんだ!とびっくり!その後すぐに、ほとん ど出ているすべてのCDや映像を見まくり、'ENCORE'という小品集にはまりまくりました。毎日毎日そればかり聞いていましたね。1万回くらいは聞い たのでは....
でも打楽器の僕がはまったのは、派手な曲というよりも、ショパンのノクターンやドビュッシーの美しい夕暮れといった、限りなく美しい曲でした。もちろんラヴェルのツィガーヌなどはかっこいい!って感じでしたが。
今まで味わったことのない繊細で、崇高で、空間が限りなく広がっていくような作品に強くあこがれを抱きました。

聴音って何?増4度って?
全く何もわからない所から出発しましたが、リズムに関してはミミコピでなく楽譜から始めたので、記譜したりすることは問題なく出来ました。作曲も遊びでやっていたので、音取りもそんなに問題なかったように思います。
ピアノも全くやっていなかったので、大変でしたが何とか音楽の大学に引っかかることができました。


2005年4月13日水曜日

中学、高校時代は?

中学生になってからは、ドラムよく練習していましたね。文化祭のときには、必ずドラムソロなんかをやらせて もらっていました。だいぶ年上の人たちから誘いを受け、スタジオなんかで練習してライヴに出たりしました。勉強は??で学校中で“中森明菜のファン”とい うことで通っていたと思います。校則なんて今はたいしてないのかもしれませんが、髪をいつも一時間近くかけてスプレーとか、ワックスでガンガン立たせて学 校に行っていました。学校の友達とは、よくプロレス技をかけ合って....ホント普通?でした。

高校2年くらいまでは、バンド活動かなりやっていたと思います。僕の時のはやりは、X JAPANとかのコピーでしたね。オリジナルも作ったりしていましたが..ジャンルはハードロックばかりやっていました。
高校から超バイト人生も始まりますが、作詞とか、写真を撮ったり、芸術の”ゲ”も知りませんでしたが、そういう文化的なことには興味があったみたいです。(ダークな面にはあまり触れないでおこう...)

受験の3年になって、ようやく勉強している友達を<かっこいい?>と思うようになり、少しは勉強したように記憶しています。この動機がホント情けないんですが....
受験はお金がなかったこともあって、青山学院大学仏文科(これも服とかデザインに興味があってオシャレそうという単純な理由)一つだけ受けて、見事不合格!
勉 強はもういいや!って進路を全く変え、音楽の勉強でもしようかなと思い、ミュージックアカデミーみたいなところに入ったんです。初めはドラムコースにいた のですが、音大受験科があるということでコースを変え、音大行こうかな、となった訳です。やっとクラシックに辿り着きました!

2005年4月12日火曜日

これからよろしく!

この日記のページでは、僕の音楽を始めた頃からさかのぼって書いていこうと思います。(変わった経歴をよく訊ねられるので)
音楽上の色々なことは、online workshopのページに載せていきます。

8 才からドラムを始めましたが、きっかけは”チビッコのど自慢”らしきタイトルのテレビ番組でした。そこで小学6年のバンドが出ていて優勝し、ドラムの少年 が、普段はダンボールをドラムセットに見立てて練習しているという話がされていました。それを見終わった僕は「今からオレがやれば勝てる!」と思ったのを 憶えています。
すぐ親に、「僕のお年玉貯金いくらある?」と聞き、楽器屋で子供用のドラムで一番安いやつをチェックしに行きました。
こう!と思ったことはすぐに実行しないと気が済まない性格は、この時から全く変わっていませんね...
その日から(何故楽譜が読めたのか覚えていませんが)、ドラム教本を見ながら毎日練習していました。これも間違ったのか、ジャズドラムの教本を使っていました...ヤマハのドラム教室に何回かは行ったような気もします。

小学生の時は、夜中に校庭で友達と毎晩のようにサッカーやバレーボールをやっていて、学校から帰るとドラムで遊ぶという感じのごく普通の奴だったと記憶していますが、中学あたりから変わっていくのですかね???